100年前、日本が救った
ポーランド孤児たちの真実
シベリアの絶望から始まった、百年を超える「恩返しの連鎖」
映画『戦場のピアニスト』で知られるポーランド出身のロマン・ポランスキー監督は、かつて日本に強い拒絶感を持っていました。しかし「日本とポーランドの知られざる歴史」を聞いたとき、テレビ番組で涙ながらに「これほど優しく温かい国はない」と語り、日本への印象を180度変えたと言います。その歴史とは——。
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⛄ シベリアの地獄——親を失った子供たち
ロシア内戦の混乱が極寒のシベリアを覆い、多くのポーランド人が難民と化しました。親を亡くした孤児たちは鉄道車両の中で凍死寸前の状態で発見されます。5歳のアントニナ少女もその一人。父は目の前で殺され、母は凍死。彼女だけが生き残っていました。
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🤝 世界が背を向ける中、日本が動いた
ポーランド救済委員会のアンナ・ビルケビッチ氏が欧米各国に支援を求めましたが、アメリカ・イギリス・フランスはすべて拒否。最後の望みをかけて来日した彼女に、日本赤十字社社長・石黒大徳氏は「人道上、見捨てることはできない」と即断。政府もわずか17日という異例の速さで救済を決定しました。
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🌸 日本での温かな日々と尊い犠牲
東京・大阪の施設に移った子供たちは、日本中から寄せられたお菓子・衣服・寄付金に囲まれ、次第に笑顔を取り戻していきます。しかし宿舎で腸チフスが発生。20歳の看護婦・松沢ふみさんは自らの感染も顧みず孤児の看病に尽くし、子供たちを救った後に自身が命を落としました。
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🔐 命がけの情報提供——ポーランドの恩返し
第二次世界大戦中、ポーランド政府はかつての恩を忘れず、日本にソ連参戦に関する極秘情報を命がけで伝えました。国際政治の荒波の中でも、20年前の人道支援が両国をつないでいたのです。
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🫂 阪神・淡路大震災——今度は私たちが助ける番
1995年の阪神・淡路大震災で親を失った日本の子供たちを、かつての孤児アントニナたちが中心となってポーランドへ招待。老体に鞭打って「今度は私たちが助ける番」と温かく迎え入れました。75年越しの恩返しでした。
孤児の子孫38人が「人道の港 敦賀ムゼウム」を訪問
2024年6月1日、約100年前に敦賀港へ上陸したポーランド孤児の子孫38人が敦賀市を訪れ、先祖の足跡をたどりました。気比の松原や敦賀ムゼウムを見学した子孫の一人は「ポーランド孤児の歴史を伝える博物館はここだけだと思う。とても素晴らしい」と語りました。日本とポーランドをつなぐ絆は、100年を経た今も途切れていません。
出典:福井テレビ(2024年6月4日)
1920年に日本が示した無償の愛は、100年の時を超えて両国に消えることのない絆を刻みました。 この誇るべき歴史を忘れず、困難にある人に手を差し伸べる精神を、次の世代へと伝えていきたいものです。

